生きづらさと共感の欠如の原因について|平等教育が原因かも?

不平等

以前、知人のエリートサラリーマンと話が合わなくなったという記事を書いたことがあります。その原因について思い至る事があったので記事にしてみました。

まずは注意!この記事は極めてプライベートな考えを適当に書きなぐったものです。

単純作業に疲れて、PCの前で酒を飲みながら書きました。


だから飲み屋トークに限りなく近いネタなので、何かを伝えようとしてないような記事は読みたくないぞ、という人は直ぐにバックして下さいね。

公開するか迷ったのですが、別にいいや!という感じで決断。

本来こういうのがブログの機能というか、ブロガー的思想だと思うのですけど、ブロガーとして稼ごう!という考えを推し進めている誰かさんのせいもあってか、不自然にアフィリ的な記事を書きだす人が増えて萎え萎えです。

売り物の記事と意見表明の記事は違うだろ、分けろよ!って思います。

ビジネスではない風を装ってアフィリ踏ませようとかダサいからどっちかにしろって!

・・・閑話休題。

正直な所、脱サラ1年半も経つとサラリーマン時代の事など一切思いだすことは無いし、当時の苦しみを思いだしてトラウマ発症!なんて事はまずありません。

毎日やる事いっぱいで忙しいし、昨年末からは家族の問題もあるしで、昔の事なんて構ってられないからです。

それに、うつで苦しかった時代の記事を書くのには、わざわざ心の奥底にしまいこんだつらい経験を引っ張り出して追体験する必要があります。

そんな理由で気が進まないので、ブログのタイトルにしている割には欝系のネタが少なかったりします。

※リニューアル前のブログ名の事です。

しかし、私の心の中には確かにその記憶があって、無意識の内に色々考えていたのでしょう。

脳のメモリを消費していたようです。

その結果ついさっき、ポン!とある仮説が出力されたので忘れない内に記事にしてみました。

平等教育と自己責任

もう、コレしかない!

昨今、人と人とのつながりが希薄になったとか、みんな個人主義で他人の事なんかどうでもいいとか、孤独を感じる人が増えたとか、様々な人が色んな言い方で同じ現象を嘆いています。

それは自己責任論からの共感の欠如という事。

例えば、以前例に出したエリートサラリーマンの知人ですが、彼はごく自然に自己責任を信奉しています。

派遣社員で将来が見えない生活をしている人が増えているとか、賃金水準の低下でみんなカツカツの生活をしているとか、ブラック企業の増加とか、マジメに暮らしてきたのに食べていけないとか。

そういった社会問題についてどうにかしないとみんな不幸になってしまうぞ、と問題提起しても全て自己責任で切り捨ててしまうので全く話が通じません。

派遣社員で将来が見えない生活をしている人が増えている。
→正社員になれない自分が悪い。

賃金水準の低下でみんなカツカツの生活をしている。、
→もっと給料がもらえる仕事に転職すればいい。

ブラック企業の増加とか。
→そんな企業に入るのが悪い。

マジメに暮らしてきたのに食べていけない
→もっと働け。

つまり、社会問題を社会の構造的な問題として捉える事が出来ず、全部自己責任で済ませてしまう。

流石、実質的には時給200円になるように人を差配していただけの事はある(笑)

そしてこういった思考様式を持っている人はいわゆるエリート系や公務員系の人に一定数いて、しかも数を増しているように思うのです。ホントに気持ち悪い。

いったいどうしてこんな風に考える人がいるとかというと、これは私の仮説ですけど、人間には能力に固体差があり、スタート地点が違う事を認められないからだと思うのです。

更に言えば、人は平等!という権利上の理念を個人の能力や環境にまで適用している人だという事です。

今思えばハッキリ言ってこういう奴は先生の言う事を素直に信じる、偏差値は高くても本質的には思慮の浅いバカだと思うのですが、この仮説はほぼ間違い無いと確信しています。

タンブラーかどこかのタイムラインを流れてきたのをチラッと見ましたが、数年にわたる社会実験の結果、人は平等だという刷り込みをすると、助け合いをしなくなるという結果がでたそうです。

みんなが平等で同じ能力を持っていて、同じ環境に置かれているなら、自分が上手く行ったのは努力したからで、不幸な目に合う人は努力不足の自己責任、なんで助ける必要があるのか、という風に考える傾向が出来るそうです。

平等教育は法律上の権利が平等なだけであって、生まれ(環境・・親が金持ちか貧乏か、インテリかバカか?)や生まれ持った能力は平等ではない!と言う事をきっちりとさせなかった事に大きな欠陥があるように思います。

だからどうした!という話ですが、数年来心のどこかに引っかかっていたトゲが抜けたような爽快感があって、思わず記事にしてしまいました。

なぜ爽快感があったのか?

この欠陥理念を真面目に信じてずーっと生きていくと、上手く行けば自分の能力に酔いしれ、不味い方に転がっていくと、自分がすべて悪いと必要以上に自虐的・自罰的になり自己評価が下がり、私のようにうつ病になります(笑)

私自身もいい子だったのでしょう、「平等」教に騙されてました。

何でもかんでも個人の責任に還元できる程、世の中単純ではないし、自分の意思の及ばない範囲なんて山ほどあるって事をおぼえておくだけで、上手く行ったときは天狗にならず周囲に感謝できるし、マズい時は必要以上に自分を責めまくらないで済みます。

生きづらさを感じても、それは自分の本質が世の中に適応しないせいではなく、自己責任に全てを帰すよう促す環境の影響も大きいと思う事が出来ます。

それに自分を肯定するには自分を形作った社会を肯定出来ないとダメなのです。何故なら、自分は望んで自分で居るわけではないからです。

例えば、私はホントのところ、お金持ちの家庭に生まれ、高度な教育を受け、身長180cmのイケメンで、もっとIQも高くて運動も得意で誰にでも好かれるような魅力的な人間でありたかったわけです。

でも、そんな訳では無く、生まれは貧乏な洗濯屋(すでに廃業!)の息子だし、顔も能力も身長も十人並だし、コミュ力にも乏しいのが私。

なんでこの私が思った通りの私でないのか、というと自分である事は「何者かによって強制されている」からです。

自分の肉体的なものや性格も、親を初めとして育ちの環境によって決定されます。

様々な条件が組み合わさった結果、出来上がったのが今の私という訳です。

もちろん、自分の自由意志による意思決定もありましたが、その土台は「強いられて」出来上がったもので、一から全部自分の望む通りに作ったわけではありません。

自分の望む通りに成長できる人はいないし、名前だって自分でつけたわけではないでしょ?

つまり、社会とは別に自分が存在するのではなく、社会あってこその自分という訳です。

自分に価値を見いだせないというかつての私みたいな人は、社会にも絶望しているはずです。理想的だと思える社会に住んでいながら、自分の事を肯定出来ないという事はあり得ません。

・・・何だかちょっと文章が酔っぱらってきましたが、強引にまとめます。

人は生まれながらに平等では無い!といい事をちゃんと肝に銘じましょう。そうすれば無意識にしみ込んだ自虐の癖から抜け出す事が出来ますよ。

自虐の癖に気付いたらうつから復活できます!

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